2009.5.24

説教題「キリストの昇天」 マタイによる福音書28:16-28

 今日は昇天日の礼拝です。プロテスタント教会では昇天日を祝ってきませんでした。しかし、昇天日のテキストには、今日においてもなお、語られるべきメッセージがあります。使徒言行録1:9以下に、「イエスは彼らが見ているうちに天に上げられたが、雲に覆われて彼らの目から見えなくなった。イエスが離れ去って行かれるとき、天を見つめていた」と記されています。これまで復活の主は何回か弟子たちの前に顕現しました。彼らは復活の主と出会い、主を裏切った罪が赦され、新しくされる経験をしました。その主イエスが天に帰られ、見ることが出来なくなると言うのです。しかし、主イエスを見ることが出来なることは、彼らを不安にさせ、失望させるためではありません。見て信じるのではなく、見なくて信じる信仰を確立するためです。主イエスは弟子のトマスに「わたしを見たから信じたのか。見ないのに信じる人は、幸いである」と言われました(ヨハネ20:29)。ペテロは「あなたがたは、キリストを見たことがないないのに愛し、今見なくても信じており、言葉では言い尽くせないすばらしい喜びに満ちあふれています」(11:8)と言っています。見ないで信じる信仰が讃えられています。

2009.5.17

説教題「イエスの祈り」 マタイによる福音書6:1-15

 主イエスは、「あなたがたの父は、願う前から、あなたがたの必要なものをご存じなのだ。だから、こう祈りなさい」と言われ、主の祈りを教えました。この主の祈りは、私たちが日常生活の中で失っているものに向かっての祈りです。私たちは、自然には「天におられるわたしたちの父よ、御名が崇められますように」とは祈りません。主イエスが教えてくださらなければ、私たちはこのように祈リません。自然にはこのような祈りは献げません。主イエスは、自分の名のためでなく、神の御名を崇めることを祈るように教えます。この祈りは、私たちを自己主義と自己栄光化から解き放ちます。主の祈りは、自由をもたらす祈りです。御名を崇めることを求める祈りは、この世の理論や価値観の支配から私たちを自由にします。日毎の糧を願い求めることによって、私たちは糧を独占することから解放されます。この祈りを祈るたびに、私たちは神に向かって解放されていきます。

2009.5.10

説教題「命に至る道」 ヨハネによる福音書14:1-6

「心を騒がせるな」とは、心がバラバラにされないように、分裂させられないようにということです。心が分裂すると、人格としての人間の存在は崩壊します。生きる力は分散させられ、エネルギーを失います。そういうことがないように、信じることが勧められています。「神を信じなさい。そして、わたしをも信じなさい」と。この「信じる」は、「信頼する、委ねる」という意味です。「イエスへと身を委ねる」ことです。他の何ものでもない、「イエス」をわたしの中心として選びとっていくという主体的な態度、決意です。イエスを選ぶ選択は心を一つにさせます。この選択の勇気と決意とは、人格の分裂を克服し、存在に中心を与え、統一した人格を与えます。イエスを信じることから人を生かす力が生まれます。

CIMG0478.JPGCIMG0477.JPG