2009. 7.26

説教題「キリストの愛に駆り立てられ」  
ホセア書11:1-8 / コリントの信徒への手紙Ⅱ5:14-15

パウロは、コリント教会以外のところでは、気が狂ったかのように、熱狂的に振る舞いました。しかし、コリント教会では、強い確信をもって、冷静に、理性的な態度で臨みました。二つの矛盾したパウロです。矛盾したパウロは統一しています。別の言葉で言えば、パウロの自由さです。そのパウロの自由な生き方に、人々は驚き、疑いを抱き、攻撃しました。パウロはどうして自由でいられるのか?と。パウロは「キリストの愛が駆り立てているからだ」と言います。「駆り立てる」とは「押し迫る、押し出す」という意味です。神の愛がパウロを押しだし、なにも恐れず、福音宣教に努めました。しかし、コリント教会を苦しめたのは、駆り立てられるもの見つからないことでした。「生きる」ことの意味を発見できない。曖昧になり、何のために生きるのか、生きる価値のある人生はあるのか、その答えを見出すことが出来ないのです。将来に夢や希望を失っていました。パウロは、主イエスはそのような虚しい現実を克服できる道を与えようとされている。わたしたちを駆り立てる神の愛が注がれている。神の愛を受け入れ、従っていくようにと言われます。

2009. 7.19

説教題「神の寛容」  創世記21:14-21 / ローマの信徒への手紙9:24-26

「わたしは、自分の民でない者をわたしの民と呼ぶ」(ローマ9:25)。ホセア2:25の言葉です。パウロにとってこの言葉の発見は衝撃だったと思います。パウロは長い間キリストに敵対する者であり、キリストを信じる者を迫害し、ステファノの殉教に関わりました。神は、その迫害者パウロをわが民、我が子と呼ばれるのです。本来神のものでなかったのに、神のものにされたのです。「聖霊ゆたかに、恵みをもたらす。神に背を向けて、歩み人にさえ」(讃美歌21の406)と、神の御名が讃えられて居ます。

2009. 7.12

説教題「生活の刷新」  エレミヤ書 7:1-7 / 使徒言行録 19:13-20

預言者エレミヤは、主なる神を礼拝する人々が、「道と行いを正し、お互いの間に正義を行うこと」を求めています。「道と行いを正し」とは具体的にモーセの律法に心から従い、行うことを意味します。ヤコブの手紙に「信仰もこれと同じです。行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです」と言っています(2:14)。エレミヤも信仰の倫理的側面を問題にしています。言葉だけでなく、日常生活の場で具体的に受肉することを求めています。使徒言行録19章は、魔術師が、イエスの名を使って悪霊を追い出そうとすると、追い出すどころか、逆に悪霊に取り憑かれた人に抑え込まれ、着物を剥ぎ取られ、傷を負わせられ、追い返された。それを見ていた魔術師たちは、その書物を持って来て、皆の前で焼き捨てたと言います。「焼き捨てる」は、古い人を脱ぎ捨て、心の底から新しくされ、新しい人を身に着けること(エフェソ4:23)を意味します。心と生活の刷新を目指していきたいと思います。

2009. 7. 5

説教題「主の委託に応えて」  使徒言行録 28:11-15

教会創立記念日を迎え、主から託された伝道、宣教について考えさせられます。教会を取り囲む社会状況は、厳しく、伝道の困難を一層実感し、教会の将来の展望は閉ざされたのではないかという思いをしています。しかし、神様は必ず道を開き、道を与えて下さいます。試練と同時に逃れる道を備えて下さる。この御言葉を信じ、従っていきたいと思います。

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