2010. 2. 28

説教題「神の約束と恵み」 
イザヤ書35:1-10 / フィリピの信徒への手紙2:16 b

*「弱った手に力を込め、よろめく膝を強くせよ。心おののく人々に言え。『雄々しくあれ、恐れるな。見よ、あなたたちの神を。敵を打ち、悪に報いる神が来られる。神は来て、あなたたちを救われる』」(イザヤ35:3-4)。

*「こうしてわたしは、自分が走ったことが無駄でなく、労苦したことも無駄ではなかったと、キリストの日に起こることができるでしょう」(フィリピ2:16)。

*「自分は無駄に走っているのではないか、あるいは走ったのではないかと意見を求めました」(ガラテヤ2:2)。

 イザヤ35章は、バビロン補囚からエルサレムに帰還した人々の記録です。BC587年バビロン戦争に敗れ、多くの人たちが補囚として連行されました。捕囚の民は50年間、異国で苦難に満ちた生活を送らなければなりませんでした。BC536年、帰還命令が出されました。帰還は、バビロンからエルサレム900キロの厳しい旅でした。シリア砂漠を超えるには命がけでした。帰ってみるとエルサレムは荒廃し、神殿も荒廃していました。その現実をみて、彼らは失望落胆し、空虚な思いに打ちひしがれました。そういう人たちに向かって語られた神の言葉です。 


2010. 2. 21

説教題「神の約束と恵み」 
申命記30:15-20 / エレミヤ書6:16

*「見よ、わたしは今日、命と幸い、死と災いをあなたの前に置く」(申命記30:15)。

*主はこう言われる。「さまざまな道に立って、眺めよ。昔からの道に問いかけてみよ。どれが、幸いに至る道か、と。その道を歩み、魂に安らぎを得よ」(エレミヤ6:16)。

*「主はこう言われる。見よ、わたしはお前たちの前に命の道と死の道を置く。この都のとどまる者は、戦いと飢饉と疫病によって死ぬ。この都を出て包囲しているカルデア人に、降伏する者は生き残り、命だけは助かる」(エレミヤ21:8-9)。

 ペトロは、エルサレムの人々に説教して、「ほかのだれによっても、救いを得られません。わたしたちが救われるべき名は、天下にこの名のほか、人間には与えられていないのです」と言っています(使徒言行録4:12)。一見独断的に聞こえますが、キリスト教の道の説き方は、ペトロのように、イエスの他に救いはないという仕方で行われます。宗教ならばどの宗教でも結局同じである。登る道は違っても、結局、同じ頂きに到着するとは言いません。それは、キリスト教が「選び、選択」を本質的にしているからです。信仰は選択であると共に、決断であるという事実を考えてみたいと思います。

2010. 2. 14 特別伝道礼拝

説教題「新しい人」 
説教:榎本恵先生(アシュラムセンター主幹牧師、財団法人わびあいの里理事)
コロサイの信徒への手紙3:1-11

「私に似た花は、それはきっといい花だろう」。これは沖縄県の南風原にある精神科病院「サマリア人病院」のデイケアメンバーがつくった小さな詩集のタイトルです。心の病を抱え、人生の生きづらさの中で、しかし、しっかりとその心の目で見つめているものがある。私たちが日常の生活の中で、忘れていたもの、見えているのに気付かされないでいたもの。私は、彼らの詩集作りにかかわりながら、それらを思い起こし、気付かされました。めまぐるしく移りゆく現代社会において、ひと時この南から吹く心の風に耳を傾けてください。

2010. 2. 7

説教題「わたしをお遣わしください」 
イザヤ書6:1-8 / マタイによる福音書13:3-8

*「誰を遣わすべきか。誰が我々に代わって行くだろう」。わたしは言った。「わたしがここにおります。わたしを遣わしてください」(イザヤ6:8)。
*「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです」(ローマ10:17)。
*「わたしたちは絶えず神に感謝しています。なぜなら、わたしたちから神の言葉を聞いたとき、あなたがたは、それを人の言葉としてではなく、神の言葉として受け入れたからです」(テサロニケⅠ2:13)。 

宗教はreligion ラテン語religio、re・再び、ligio・固く結びつける、固くしばる。宗教は、神様と再び交わりをつくることです。神は「わたしは誰かを遣わしたい」「誰かわたしのために行ってくれないか」という神の呼びかけです。この呼びかけは不特定です。しかし、イザヤは自分に語りかけられたと受け取りました。その神の呼びかけに、応答する。それが信仰です。

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