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2011.2.27

説教題「一人でがんばらないで」 キスト岡崎 さゆ里牧師
マタイによる福音書11:28-30

私たちの仕事はいわば伝道活性コンサルタント?。日本の諸教会で礼拝奉仕をしていますが、特に、アメリカで行われている新しい伝道の試みとしての「コンテンポラリーワーシップサービス(現代的礼拝)」を、教会の特別伝道礼拝、キリスト教学校の修養会、その他の集会で紹介しております。「礼拝から伝道へ」をテーマに礼拝で力をいただき、教会が元気になって外へと働きかけられるような、ビタミン・プログラムを企画しています。なんとなく従来通りできてしまった教会生活を、新しい目で見つめてみませんか。ちょっとした工夫など、出来ることがきっとあるはずです。現代の波の中で変わらない唯一のもの、それは神の御言葉です。御言葉をいかに現実の生活に即して聞くことが出来るか。そのためにアメリカでは、80年代より時代の変化に対応して礼拝スタイルが研究・実践されてきました。礼拝が、喜びに溢れる神との出会いの場になるように、聖書の御言葉を創作讃美歌や、シンセサイザーの奏楽、映像やドラマ、リタージカルダンスなど、伝統的な改革派神学に基づきながら、未信者、求道者、若い人にも御言葉のメッセージを伝えるような工夫を研究しています。私たちに与えられた賜物のすべてをもって、礼拝において神にお献げするのが基本的な精神です。

2011.2.20

説教題「百倍の実を結ぶ」 大村 清 牧師
詩編126:5-6 / ルカによる福音書8:4-15

「涙と共に種を蒔く人は、喜びの歌と共に刈り入れる。種の袋を背負い、泣きながら出て行った人は、束ねた穂を背負い、喜びの歌を歌いながら帰ってくる」(詩編126:5-6)。

「ほかの種は良い地に落ち、生え出て、百倍の実を結んだ」(ルカ8:8)。

 私たちが一所懸命に愛と真実の種を蒔いたとしても、その蒔いた種が全て実を結ぶとは限りません。ある人は軽くあしらい、ある人は関心を全く示さない、ある人は悪意をもって反対する、苦しめる。しかし、そうだからと言って、失望したり、落胆しないように。あなたの善意の種が99%踏みにじられ、無駄になったとしても、最後の一粒が良い地に落ち、一人の心に本当に受け入れられたなら、一粒の種は百倍の実を結ぶ。労苦は決して無駄になることはない。現実は厳しいかもしれない。涙と共に種を蒔くことが多くても、真理は必ず最後の勝利をおさめる。そのことを信じていきなさい、と。絶望することなく、諦めることなく、終末的な希望をもって、人生の最後の日まで善意の種を蒔き続ける。あなたは一人ではない。種蒔きに苦労された主が共にいてくださいます。主は今も種を蒔き続けています。


2011.2.13

説教題「 安息日の主」 大村 清 牧師
ルカによる福音書6:1-11 / コリントの信徒への手紙Ⅰ3:21-23

 イエスが弟子たちに麦の穂を摘んで食べたことを許した。安息日律法破りを見たファリサイ派の人々は、イエスを許すことが出来ませんでした。安息日破りを許したら、国が、教団が、自分の信仰が混乱、破壊してしまうと思ったのです。イエスはダビデの故事を例に引きながら反論しています。安息日というのは飢えた人の空腹を満たすのを許さないような、そんな融通の利かない掟ではないと言うのです。自由で救いを与えるものだと。イエスによれば安息日は人間の生活を不便にしたり、人助けを抑制したりするものではありません。律法というのは、元来、人が神の考えに基づいて生きる訓練のために定められたものです。神を身近に意識し、神と共に生きる喜びを知るためのものです。そういう本来の姿に戻らなければならない、と。ファリサイ派のような律法主義がはびこるならば、神様を根本から誤解されてしまうと思われました。ファリサイ派のような考え方で律法を考えるなら、神様は気むずかしい方で、人の一挙手一投足を規制する裁きの神になってしまいます。神様はそのような方ではない。慈愛と寛容と忍耐と自由な神です。イエスはその慈愛の神を、身をもって明らかにしました。


2011.2.6

説教題「新しい教え」 大村 清 牧師
創世記19:15-17 / ルカによる福音書5:27-39

「医者を必要とするのは、健康な人ではなく病人である。わたしが来たのは、正しい人を招くためではなく、罪人を招いて悔い改めさせるためである。」(ルカ5:31)

「だれも、新しいぶどう酒を古い革袋に入れたりはしない。そんなことをすえば、新しいぶどう酒は革袋を破って流れ出し、革袋もだめになる。新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れなければならない。」(ルカ5:37)

「命がけで逃れよ。後ろを振り返ってはいけない。低地のどこにもとどまるな。山に逃げなさい。さもないと、滅びることになる。」(創世記19:17)


  ルカ福音書が語っていることは、イエスのもたらしたものは、この世のいかなるものを持っても比べることのできない、完全に新しいものです。「新しい服から取った継ぎ切れを古い布に縫いなわせるなら、布をだめにしてしまう」「新しいぶどう酒は、新しい革袋に入れねばならない」と。主イエスの新しい福音を受け入れ、福音に合わせて、新しくされていかなければならない。「滅びに向かっている古い人を脱ぎ捨て、心の底から新たにされて、神にかたどって造られた新しい人を身に着つけなさい」と(エフェソ4:22)。福音に促されて、新しくされて、救いに導かれましょう。