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2011.10.23 収穫感謝礼拝

説教題「豊かな実り」 林邦夫 牧師
詩編65:10-14

 1620年、イギリスのリバプールという港から一隻の帆船が、大西洋の大海原に乗り出しました。名前はメイフラワー号。小さな帆船でしたが、乗組員の他に102人のクリスチャンが乗っていました。これらの人々はピューリタン(清教徒)と呼ばれていました。このころ、イギリスでは教会で自由がなく、すべて教会が定めたことを守らなければなりませんでした。違うことをすると、教会から厳しく罰せられました。イギリスでは自由な信仰生活ができないと考えた人々が、大西洋を越えてアメリカ新大陸に行き、そこで神さま以外にどんな権力者からも支配されない自由な清い信仰生活を守ろうと考えたのです。メイフラワー号はアメリカ新大陸のニューイングランドを目指しました。9月に出発したのに、ニューイングランドに着いたのは11月も終わりの頃でした。航海の間に多くの人々が死にました。嵐に苦しめられ、ようやくプリマスロックのコッド岬というところに到着しました。 11月の最後の日曜日。1年前、やっとアメリカに着いた人々は、開拓村の真ん中に立てられた小さな粗末な教会堂の前に、最初の収穫物を携えて集まりました。人々は心からの感謝の思いをもって、最初の収穫である神さまの恵みを、神さまに献げたのでした。これが収穫感謝祭の始まりです。

2011.10.16

説教題「平和のきずな」 林邦夫 牧師
士師記7:1-8 / ルカによる福音書17:20-37

イエス様は弟子達にノアやロトのことを語り、何を伝えておられるのでしょうか?ノアやロトは決定的な瞬間において、神様に忠実であり後ろを顧みなかったばかりか前を望み見る信仰に生きた故に滅びから免れました。決定的な瞬間に神様へ忠実な信仰を示しうることができるということは、一朝一夕にできることではありません。私たちも忠実な信仰を示す練習を日頃から積み重ねなければなりません。忠実な信仰を立てるキーポイントをイエス様は33節で「自分の命を生かそうと努めるものはそれを失い、それを失うものはかえって保つのである。」と語られます。自己中心の生き方から他者中心の生き方を、自分の思いを優先することから神様のみこころを優先する生き方を願われています。

2011.10.9

説教題「富からの自由」 林邦夫 牧師
ルカによる福音書16:1-13

このたとえ話の最後の13節にしっかりと目をとめたい。主イエスは、神と富、この二つのものは最後において両立することができないものであることを明瞭に示されています。この世と神の国との間には一つになることができない一線があり、これを曖昧にしてはいけません。キリスト者はこの世にあって生活しますが、この世に屈従して生活してはなりません。
神は唯一です。私たちが拝し、主として仕えるのは神以外にはありません。それゆえにまことの神と富という偶像との両方に奉仕することは、それ自体矛盾であり、不可能をあえてすることになります。
にもかかわらずそれが現実に生きることだと考えるならば、その人は富の配下に属してしまって、まことの神から離れてしまったものとなります。キリスト者はこのような状態に陥る危険は常にあります。信仰というものは、純粋を尊び、節操を重んじます。しかも、この汚れた現実の世界に生きていかなければなりません。ここにキリスト者の難しさがあります。これはもはや人間の力では到底乗り切れません。神の力により頼む以外にはありません。



2011.10.2 教会全体修養会礼拝

説教題「宣教の使命」 林邦夫 牧師
詩編96:1-13 / マタイによる福音書9:35-38

この35~38節のみ言葉は、宣教の使命を思うたびに教会が読んできたみ言葉であります。教会が伝道者を立て、牧師を任命する時に歴史の中で絶えず読まれてまいりました。「イエスは町や村を残らず回って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、ありとあらゆる病気や患いをいやされた。また、群衆が飼い主のいない羊のように弱り果て、打ちひしがれているのを見て、深く憐れまれた。」(35~36節)と記されています。主イエスの生き様、宣教の姿に立ち帰る、言わば教会の原点ともいうべき姿が、このみ言葉に示されているのではないでしょうか。すなわち、主イエスの宣教活動は「教え」と「宣べ伝え」という言葉と、「いやし」という行為の両面が不可分に一つとされ、しかもそれらの根底には、主イエスの「深い憐れみ」、つまり、「共に苦しみ」「共に生きる」という姿勢が貫かれています。