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2015. 2. 22 降誕節第6主日礼拝

「荒れ野の誘惑」 林邦夫 牧師
ルカによる福音書4:1-12

  2月18日の灰の水曜日から、レントに入りました。灰の水曜日とは、中世より西方教会で悔い改めをする者が、特別に祝された灰を頭上に被ることから始まりました。その後は、全員が額に灰の印を受ける事によって、懺悔の印とされました。今でもその伝統は受け継がれており、わたしも京都のカトリック教会で見せていただきました。祝された木を燃やして作った灰を、神父さんが灰の水曜日のミサにあずかった信者さんの額につけておられました。
  レントは四旬節、受難節、大斎節とも呼ばれますが、イースターまでの6主日を除く40日間を指して言います。6主日を除きますのは、主日が主の復活の祝日であるとの理由です。
  40日との期間は、キリストの荒れ野の誘惑に先立つ40日の断食に基づいています。そしてこの期間を、克己、修養、悔い改めの特別期間とする傾向が強くなりました。
  本日の聖書は、レント期間の基となりました
40日断食後の悪魔による荒れ野の誘惑の箇所です。イエス様はどのように悪魔の誘惑に対峙されたのでしょうか。



2015. 2. 15 降誕節第8主日礼拝

「五つのパンと二匹の魚」 林邦夫 牧師
ルカによる福音書9:10-17

「群衆を解散させてください。そうすれば、周りの村や里へ行って宿をとり、食べ物を見つけるでしょう。」(12節)そのような弟子たちの申し出に対して、主イエスは「あなたがたが彼らに食べ物を与えなさい。」(13節)と命じられました。しかしこの場面をみると、弟子たちはその責任を放棄しております。 
  主イエスの前に帰還した弟子たちは、自分たちのしたことを誇らしげに報告いたしました。しかし、今この命令を受けた時に、弟子たちはまだ舌の根もかわかないうちに、空腹の男たち5千人を前にして、彼らはもろくも腰砕けになってしまっております。彼らが主の前につぶやいたのは、「私たちにパン五つと魚二匹しかありません。」そのようにしか彼らは答えることができなかったのです。明らかに彼らは主の命ぜられたその責任
 を放棄しております。「こんな人里離れた所にいるのですから群衆を解散させて、それぞれ各自で自分の必要を満たせるように」と提案をします。確かにこの弟子たちの提案は大変合理的な判断に立っていると思います。同時に、群衆に対して神の国の教えをこと細かく語られる、それで充分ではないか。それ以上の面倒を見ることは、群衆の甘えを増大させること、彼らの自立を妨げることになってしまう。自らの足で立つことを学ばせるべきである。

2015. 2. 8 降誕節第7主日礼拝

「御心ならば」 林邦夫 牧師
ルカによる福音書5:12-26

 彼がこのようにしてまで屈辱に耐えつつ、主イエスのところに来たのは主が来られるからでした。そして彼がただひたすら主だけを見つめて茨の道を歩みつづけて来たのです。彼は「清めて下さい」とは言いませんでした。「御心ならば」私を清くすることがお出来になります。」つまり、「あなたがそれを意志して下されば」と。
  この低き嘆願に主が答えられないはずはありません。主イエスは口を開く前に「手を差し伸べてそれに触れ」られました。それは一つには彼の病と痛みの全てを自らに引き受けるためであり、今一つにはこの世における一切の交わりを断たれた彼に対して、根源的な、何ものによっても破られることのない永遠の交わりを確立することでありました。言葉に先立つこの行為、そこに主イエスの燃えるような愛を感じないでしょうか。

2015. 2. 1 降誕節第6主日礼拝

「生きた神のみ言葉」 林邦夫 牧師
ルカによる福音書8:4-15

 人は誰しも自分の中に四種の土地を持っているのです。私たちの生涯のある時期や段階で、同じ人間が道端であったり、石地であったり、茨の地であったり、良い地であったりするのです。もちろんはじめから実り多い畑であるような土地はありません。私たちが「良い地」とされるのは、ひとえに農夫なる父なる神が適度な湿りを与え、石地を砕き、茨を焼き払うなどして、かたく不毛な状態の私たちを耕し直して下さるからに他なりません。それゆえに、実りの秋を迎えて「百倍もの実を結んだ」としても、それはこの私が良い地だからだ、といって自分の功績を数え上げることは許されないでしょう。収穫は蒔かれる種(み言葉)があればこそです。
  主イエスはかつてご自分をさして、一粒の麦は地に落ちて死ぬことで豊かに実を結ぶようになると語られました。私たちはこの一粒の麦のたとえから冷たく暗い土の中に蒔かれた種と、そして陽に輝きながら黄金色に波打つ麦畑を思い浮かべることができます。一方に死があり、他方に生命があります。それは「死を介しての生」であります。キリストもまた、冷たい墓に葬られ、陰府にくだり、三日目によみがえり給いました。それゆえ、み言葉の種とは究極には、イエス・キリストご自身であり、その死と復活こそは私たちの宣教の成立根拠と言わねばならないでしょう。