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2015. 4. 26 復活節第4主日礼拝

「永遠の命のパン」 林陽子 牧師
ヨハネによる福音書6:22-40

群衆は、28節神のわざを行うには何をしたら良いかと問うています。私たち人間は、神と人との関係が問題となる時、いつでも自分が何をしたか、何をすれば神に受け入れられるものとならかを第一に考えようとします。神と人間との橋渡しをする時に自分の思いを中心に、自分の方から橋をかけ始めるのであります。これはバベルの塔を築く様な傲慢な姿にも似ています。 
イエス・キリストは29節「神がお遣わしになった者を信じる事、それが神の業である」と戒めます。永遠の命を受けるためには、人間の側から橋を架ける様な傲慢さではなく、ただ神様がかけて下さる橋を受けとめることであります。神がお遣わしになった者、仲保者イエス・キリストを受け入れる事であります。永遠の命に至るか否かはこの一点にかかっています。神と人との仲保者イエス・キリストを受け入れるとは、私たちの全てを信仰によってキリストにゆだねるのです。その時初めて私たちすべての生活と行為が、主の導きのもとに置かれます。
キリスト者の生活は自分から神さまへの橋を架けることではなく、神様からかけて下さる橋を感謝し、これに応答する「応答の生活」であります。




2015. 4. 19 復活節第3主日礼拝

「赦された者として」 林邦夫 牧師
ルカによる福音書24:36-49

 イエスさまは聖書を悟らせるために、彼らの心の目を開いて語られます。この言葉の内に、弟子たちが人々に伝えるべきメッセージが、すべてまとめられています。人々に罪の赦しを得させる福音であります。赦しの福音を語る使命を与えられた弟子たちは、それを通して、イエスさまが確かに自分たちをお赦し下さっているということを確信するに至ったと思います。イエスさまはご自身を棄てた弟子たちの罪を赦して下さり、再び弟子として召して下さり、そして新たな人生の地平へと一人ひとりを押し出して下さったのであります。
 イエスさまは弟子たちを新しい使命に生かすことをもって、彼らの罪の赦しを宣言されました。弟子たちはイエスさまに赦された者として、その喜びを携えて、世界の果てにまで十字架と復活の証人として立てられ、福音を伝えたのです。赦された者として生き、イエス様に愛された者として十字架と復活の証人として生きる群れ、ここに教会の原点があることは言うまでもありません。
 私たちはイエス様に愛された者として、愛に生き、愛の言葉を語っているでしょうか。また、イエスさまに赦された者として、周囲の人々を赦すことができているでしょうか。そのことを問いつつ、復活の主と共に歩む者でありたいと心から願います。



2015. 4. 12 復活節第2主日礼拝

「終わりからも始まる」 林邦夫 牧師
ルカによる福音書24:13-35

 主との出会いによって、彼らの心に消えない希望の火が灯されたのです。そしてこの希望の火に温められながら、弟子たちは新しい人生に歩み出していきました。この甦りの主は、私たちそれぞれの悲しみの時にも私たちと一緒にいて下さり、絶望に新しい希望を備え、新しい歩みを今日に至るまで豊かに拓いてくださいました。挫折を経験したり、大きな困難に出会う時、思い浮かべる言葉があります
 「信仰者にとって、終わったと思うところがいつも始まりです。そこから神さまの支え、力が始まるのです。そこで、私たちは平安を受け取ることができるのです。」『夜明けの光』(小島誠志著)
 エマオ途上の物語においても、まさに「終わったというところが始まり」となりました。何人もの方々が愛する方を失う中から新しい始まりを導かれ、今日に至っておられます。こうした事実・出来事を踏まえる時、「信仰者にとって、終わったと思うところがいつも始まりです」という言葉が真実であることを思わされます。
 甦りの主の伴いと支えが、必ず終わりからも新しい始まりを起こしていきます。甦りの主が必ず終わりから始まりを起こして下さるとの恵みを心から信じ、希望をもって前進していきたいと願います。


2015. 4. 5 復活節第1主日礼拝

「キリストの復活」 林邦夫 牧師
ルカによる福音書24:1-12

 聖書を読むたびに私たちはこの活きた主イエスに出会います。そして今日もまた、この礼拝の中で共に主イエス・キリストのみ言葉に出会います。主イエスのさき給うたパンにより、新しい生命を明日も、明後日も期待しながら歩んで行くことができることを、大きな喜びとし、また、そのことは私たち個人に関わることではなく、世界の歴史に関わることであることを喜びをもって経験してゆきたいと思うのです。
 ポンヘッファーの死は決して一人の死では終わりませんでした。そこから新しい生命を、世界は得て進んでいることを、私たちは繰り返し思い起こし、黄昏に向かって歩む人生に、その最も根源のところで常に語りかけ、新しい生命を燃え立たしめるイエス・キリストがいますことを、私たちは想い起したいものです。