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2015. 6. 28 聖霊降臨節第6主日礼拝

「救いは全ての人に」 林陽子 牧師
使徒言行録10:1-11:4

 新しいペンテコステが起こりました。当時、ユダヤ人キリスト者は割礼を受けていない異邦人がキリスト者になれるなど、考え及ばないことでした。ペトロもそうでした。そのペトロは何によって変えられたでしょうか。2000年間ユダヤ教が守ってきた清いものと清くないものとの食物規定、この伝統を打破できたのは神に示される幻によってでした。
 一介の漁師であったペトロは主イエスに一番弟子として召し出されました。しかし主が十字架にかけられる時、三度も否認し主を裏切りました。罪に打ちひしがれるペトロを、復活の主は再び訪ね赦して下さり「ヨハネの子シモン、わたしを愛しているか」と問い、「わたしの羊を飼いなさい」と三度も告げられます。そのペトロに主は幻を見せ、またコルネリウスにも幻を見せました。ペトロがユダヤ教の食物規定に固執したならば、この異邦人への宣教の道は開かれなかったでしょう。主の幻に徹底して謙虚に聞き従うペトロの信仰がターニングポイントとなって、神の摂理はそれまでのユダヤ教という民族宗教から、異邦人をも救われるキリスト教という世界宗教へと移されました。歴史を摂理される神は今も働いて私たちを導いて下さっておられます。

2015. 6. 21 聖霊降臨節第5主日礼拝

「主の熱意」 林邦夫 牧師
使徒言行録13:44-52

 伝道は何よりも主の言葉が各地に広まっていく出来事であります。み言葉が前進していくのです。
使徒言行録3:15に、エルサレム神殿の前で語られたペテロの説教の中で、「命への導き手」という言葉が記されています。甦られた主イエス・キリストを指して語られたみ言葉です。ある英訳聖書が「いのちのパイオニア」と訳しました。「いのちの開拓者主イエス」です。主イエス・キリストは、十字架で死なれ、陰府に降られました。しかし、死を打ち破られて甦られた。死という未開拓の場所で、死後のいのちを開拓されたのです。私たちのいのちの先達、主イエスの後に続き、死で終わらないいのちを受け継ぐのです。それと同じように聖霊は、伝道未開拓の地を開拓していく。開拓していくのは聖霊であり、その後を弟子たちが続くのです。主の言葉は聖霊を受けて、未開の地を開拓していく力を持つ。伝道は何よりも、開拓者、聖霊への信頼、主の言葉への信頼から始まるのです。
 最後に、46節でユダヤ人への妬みからくる伝道妨害に対して、パウロとバルナバは勇敢に語りました。この「勇敢に語った」は、「大胆に語る」「公然と語る」という意味です。パウロとバルナバがここで語った内容は驚くべき内容でした。

2015. 6. 14 聖霊降臨節第4主日礼拝

「大胆に神の言葉を」 林邦夫 牧師
使徒言行録4:13-31

 ただここで、彼らはいきなり自分たちの願いを訴えたのではなく、最初に創造主なる神への信仰を言い表しています。(24節)。私たちは天地万物の創造者をおそれるべきであって、その神によって造られた人間をおそれるべきではありません。マタイ10:28には、「体は殺しても、魂を殺すことのできない者どもを恐れるな。むしろ、魂も体も地獄で滅ぼすことのできる方を恐れなさい。」と記されています。
 このようにして「心を一つにして」祈った祈りは聞かれました。「祈りが終わると、一同の集まっていた場所が揺れ動き、皆、聖霊に満たされて、大胆に神の言葉を語りだした。」(31節)
 教会の使命は、「大胆に神の言葉を語る」ということであります。この世の権力によって、これに弾圧が加えられることがあります。戦時中の日本の教会はそうでした。そして今、再びそのような方向に向かわないとは限りません。その時私たちは、「神の言葉に聞き従うか」どうかかが問われるのかも知れません。


2015. 6. 7 子どもの日・花の日礼拝

「神さまの下さった白い花」 林邦夫 牧師
マタイによる福音書6:28-30

 花というのは、聖書では「その咲いている時は、限られているのです」と記されています。花はその限られた時の中で精一杯美しく咲いていると記されています。わたしたちはみんな、調子のよい時も、よくない時も、病気の時もありますが、どのような時にも神さまが導いて下さることを信じて歩んでいきましょう。美しいお花は神様からいただいた贈り物です。けれども、お花を神さまが下さった贈物であると思えない人は、お花を踏みつけることもできるのです。美しいお花をみんなで分かち合うというのは、じつは私たちの心をみんなで分かち合うことだと思います。
 明日のことは明日自身が思いわずらう。明日のことを心配しないで、今そのことを必要としている人たちに、一緒に、神さまから与えて下さった、美しい大切なものを分かち合いながら生きていきなさい。聖書はそう伝えているように思います。
 ― 祈り ―
 神さま、共に花の日・子どもの日の礼拝を守ることができて感謝いたします。どうか私たちにあなたが与えて下さっている大切なものを分かち合いながら、共に歩むことができますように導いて下さい。ここに集えなかったお友だちの上にも、あなたの恵みが与えられますように。主イエス・キリストのみ名によって、この祈りを捧げます。