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2015. 5.31 聖霊降臨節第2主日礼拝

「恵みの時、救いの日」 林邦夫 牧師
コリントの信徒への手紙二6:1-10


2015. 5.24 聖霊降臨日ペンテコステ礼拝

「キリストの昇天」 林邦夫 牧師
創世記11:1-9/使徒言行録2:1-11

 私たちは人間ですから人間の側からしか歴史を見ることができないのは当然かと思いますが、信仰を持っている者は信仰の目をもって歴史を見ることが許されています。
 人類を創造された神様が、歴史のいつの時にも背後にあって、愛する我が子である人類を罪悪の中から救い出そうと、涙し導いてくださっておられることを、私たちは信仰の目と心をもって感じ取ることができるのではないでしょうか。そのような神様が、ペンテコステの出来事の背後にあって導いて下さっておられることを感じながら、聖書を紐解きたいと思います。   ― 中略 ―
 聖霊が働く時、自分が変えられ人と人の中垣が取り去られます。それは決して自分の努力や能力ではありません。聖霊は私たちの内に働き、私たちを罪の縄目から解放して下さる神さまご自身です。聖霊は私たちを内側から動かすもので、それなしには真実に生き得ない私たちです。聖霊が降った時、弟子たちは変えられました。彼らは主イエス・キリストが生きたように生き始めました。


2015. 5.17 復活節第7主日礼拝

「キリストの昇天」 林邦夫 牧師
マタイによる福音書28:16-20

「あなたがたは行って、すべての民をわたしの弟子にしなさい」(19節)と全世界へと押し出されます。この「弟子」という言葉は、「兄弟」に置き換えても少しも差し支えありません。私たちはお互いのことを教会で兄弟姉妹と呼びます。それは何故でしょうか。よみがえられた主イエス、十字架について私たちの罪の赦しをもたらすと共に、よみがえられた生ける主イエスが、私たちを「わたしの兄弟、私の姉妹」と呼んで下さる。
ですから私たちは兄弟姉妹なのです。恐れることはない、恥ずることはない、臆することもためらうこともなく、私たちは共に兄弟姉妹だということができます。主の弟子は、すなわち主の兄弟と言える道がここに開かれたのであります。そして「世の終わりまであなた方と共にいる」と言われた主イエスが、その霊において私たちと共にいますと信じたい。
私たちの日ごとの歩みの中に、いつどこででも死が不意討ちをする。しかし先に手を打って、主が命をもって迎えて下さることを心から信じて、ここにいのちの交わりをつくるのであります。私たちが現実の前に心弱り挫けそうになる時、目の前に主イエスと出会う前の「ガリラヤ」が見えてきます。


2015. 5. 10 復活節第6主日礼拝

「ただ、お言葉をください」 林邦夫 牧師
ルカによる福音書7:1-10

 彼は権威の下にある者として、主イエスの権威が天から来ており、主イエスの言葉が神の言葉であると信じることができたのであります。それゆえ彼は主イエスに向かって「ただ、お言葉をください」と願ったのであります。彼は異邦人、たぶんローマ人であったと思われますが、イスラエルの中でも失われていた神の言葉に対する信仰を表わし、主イエスの言葉に神が語っておられるのを聞くことができたのです。
 ここには神が語られる、そしてそのようになったという旧約聖書の伝える神の言葉に対する信仰が見られます。百卒長の言葉は彼の祈りの言葉であるとも言うことができます。幼いサムエルが老祭司エリの言葉に従い「しもべは聞きます。お話下さい」と祈ったのと同じ信仰の姿がここに見られます。それゆえ主イエスはこの百卒長の言葉を聞いて、「言っておくが、イスラエルの中でさえ、私はこれほどの信仰を見たことがない。」と言われているのです。
 主イエスはご自分に対する彼の信仰を公におほめになりました。百卒長の僕への愛情、ユダヤ教に対する寛大さ、主イエスへの尊敬と謙遜、さらに主イエスに対する深い信頼は、彼が本来キリスト教的精神を持っていたことを証ししています。


2015. 5. 3 復活節第5主日礼拝

「神の子の自由」 林邦夫 牧師
ガラテヤの信徒への手紙3:23-4:7

 主イエスは、信頼と神への畏れを含めてアッパと呼び、そこで決断された祈りによって十字架へと進んでゆかれました。ただ一事のために、私たちを神の愛の赦しの中におくための執り成しへの道へ。それ故にこそ私たちも、アッパと呼ぶことがゆるされたのであります。
 私たちが神の子とされるということは、ひとり子イエスの執り成しによって、神の子とされる自由へと招かれるということであります。つまり十字架という束縛の中に、不自由の中に自ら身を投ずることによって、すべての束縛、不自由さを象徴する死を滅ぼし、死にて死に勝ち給いました。
パウロは7節で、「ですから、あなたはもはや奴隷ではなく、子です。子であれば、神によって立てられた相続人でもあるのです」と記しています。おそらくパウロは自分自身のたどってきたすべての歩みを振り返りつつ、このことを記しているのではないでしょうか。こんな迫害者のわたしを、神の子として下さる神の恵みの前に立たしめてくださるのだと。