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2013. 1. 27 降誕節第5主日礼拝

「キリストの教え」  林陽子牧師
マタイによる福音書 5:1-12


 「清い心」というのは、旧約の詩編に由来する表現で、罪のない、神に対して二心無き従順を意味します。その清い心を保つ人々は、あのモーセさえ見ることの叶わなかった神を見ることが出来る、終末の神の国の到来の日には顔と顔を合わせて神を見ることが出来ると、イエス様は最高の福音を語ってくださいました。
 イエス様の後の古代後期のキリスト教では、心の清さを禁欲的に解釈しました。それは人の心身に湧き起ってくる欲情やあらゆる激情の罪から心を清めることによって、人が神の似姿となり、神を見ることが出来ると理解しました。
 けれども、宗教改革者のルターは心の清さを世俗の中に見出しています。「人は、神自身がそうなさったように、高みに昇ろうと務めるべきなのではなく、深みに至ろうと務めるべきである。そして神を悲惨な者達、迷える者達、また苦労している者達の中に捜すべきである。そこでこそ人は神を見、そこでこそ心は清くなり、またあらゆる高慢は意気消沈しているのである。心の清さは各人が世間の己が持ち場において、神が語ることを考え、自分自身の考えの代わりに神の言葉を据えることを意味する。」と。


2013. 1. 20 降誕節第4主日礼拝

「キリストに従う」  林邦夫牧師
マタイによる福音書 4:18-25


 シモン・ペトロも主イエスと共にいつも一緒に歩いていたわけではありません。『サタンよ、引きさがれ』とまで叱られてしまいました。三度の否認、けれどもその挫折を越えて、最後まで主の後について行くことが出来ました。ペトロに十分な動機があったから、ペトロが十分な誠意を尽くしたから最後まで歩けたのではありません。こちらに動機がなくても、神さまの方に十分な動機があったのであります。
 ついて行って、だんだんそのことが分かってくるのであるかもしれません。しかし、主イエスはそのようにして私たちに出会い、お召しになります。私たちに目を留めて「ついてきなさい」と呼びかけられます。私たちはこの呼びかけに応えてすぐ立てばよいのであります。
 私たちはこの礼拝の場で「わたしについて来なさい」との呼びかけを聞き、弟子として出ていきます。主と共に遣わされていくのであります。
 主が先立って歩いてくださる、その主の背を見つめて、家族のところ、友人のところへ行くのです。難しいと思っている自分の職場に戻るのであります。主が共にいて下さることを心から信じるものでありたいと思います。


2013. 1. 13 降誕節第3主日礼拝・教会標語礼拝

「唇に賛美を、心に祈りを、御言葉を耳に」  林邦夫牧師
エフェソの信徒への手紙 5:6-20


パウロは、共同の礼拝と祈りと集会こそが、キリスト者のいのちの源、基本的な在り方を表す場として考えています。他の人々の営みは、酒による酩酊によって特徴づけられますが、キリスト者の酩酊、すなわち神の御霊が生み出す「冷静な酩酊」があると。(18節)
  これは、集まった人々が心の奥に火を灯され、主に賛美と感謝の歌を歌い(19節)、共に恵みを思いつつ、イエス・キリストの名により父なる神にいつもすべてのことについて感謝するとき(20節)、礼拝の中にあらわれるのです。
 別の視点で述べるならば、私たちは肉の歓喜に対し、霊の楽しみがあることを知らねばなりません。肉の表現に対して霊の表現があることを知るべきです。飲酒による表現を肉とすれば、御霊による表現は「詩とさんびと霊の歌」であります。パウロは教会の中に詩とさんびと霊の歌が満ち溢れることを望んでいます。これこそが健全な教会の姿。教会はその歴史と伝統の中で「詩とさんびと霊の歌」を歌い継いでまいりました。神の臨在とキリストの救いの出来事に対する共同のさんび、告白を教会は伝えてまいりました。「わたしたちの神をほめ歌うのはいかに喜ばしく、神への賛美はいかに美しく快いことか」(詩編147:1)


2013. 1. 6 降誕節第2主日礼拝

「すべての民の救い主」  林邦夫牧師
マタイによる福音書 2:1-12


 第3イザヤが「わたしには夢がある」と語っています。「新月ごと、安息日ごとにすべての肉なる者はわたしの前に来てひれ伏すと主は言われる」(イザヤ66:23)。これは、すべての民族、全世界の人々が礼拝共同体を形成するという壮大な幻です。
 マタイは、救い主を最初に拝んだのはいわゆる異邦人と呼ばれる外国人だった、と告げます。東方の占星術の学者たちは、暗闇の中を先立つ光に導かれて幼子を見つけ、喜びに満たされます。
 彼らは、正統のイスラエルの信仰からすれば、礼拝共同体には入れない者です。しかし、本来神の祝福に与ることができる、と自負しているユダヤ人ではなく、この異邦人たちに真っ先にクリスマスの喜びがもたらされているのです。
 ここではあの第3イザヤの幻が先取りされているかのようです。しかし、すべての民族が共なる礼拝を行おうとする時、一番障害になるのはユダヤ人の内にある、ユダヤ人でなければ礼拝共同体に入れないという民族主義的偏狭さです。救い主はその闇を照らす光として来られました。その光に照らされる時、私たちはもう一度、まことの礼拝を知らされるのです。



2013. 1. 1 元旦礼拝

「いのちを紡ぐ輪」  林邦夫牧師
出エジプト記 1:22-2:10


 モーセが誕生し、救出されるこの物語は、終始一貫して神が「よしとされた」いのちを守ろうとする女性たちの叡智が導いています。シフラとプアも含めたこの5人の女性たちの活動は、イスラエルの民がエジプトを出る道筋を表していると言えるでしょう。
 彼女たちのいのちを守る行動は、軍隊を背景とするファラオの権力に比べて何と小さく、そしてとるに足らないものであるように映るのでしょうか。しかし、その小さく見える行動、勇気と知恵と決断が伴うその行動こそが、神が「よしとされた」創造の技への参与となっています。
 荒れ野それは未知の世界です。武力によって人を威圧し、大きく見せよう、強く見せよう、とするのではなく、弱くされている、弱さを知っていることこそ幸いだと伝えられるところ。一つにまとめ上げて支配するのではなく、いのちを尊び仕え合うことへと押し出される地です。荒れ野へ主は導かれます。その旅路を通して神の民となるために。そして荒れ野へと旅立つことが出来るのは、神が「よしとされている」祝福の眼差しのもとにあるからです。
 荒れ野で命を紡ぐ輪は、私たちのところにも繋がれています。一人ひとりの証人を通して、私たちに手渡されてきました。小さくされている一人として寄り添い、言葉なき声に耳を傾けることによって、共に祈り、共に立ち上がり、自らの足で歩み出すことによって。私たちもその輪を手渡す一人とされています。
 新しい2013年、私たちも主の祝福の言葉を携えて歩んでいきましょう。神が荒れ野の旅を必ず先立って導いて下さいます。