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2011.6.26 

説教題「聖霊の賜物」 林邦夫 牧師
使徒言行録2:22-36

こども讃美歌94番「ふしぎなかぜが」川上盾 

ふしぎな風が びゅうっとふけば はなしのながい人たちも いつの日か 神の家族に きっとなれる それが聖霊のはたらきです 城北教会も あの風とともに

使徒2:38「悔い改めなさい。めいめいイエス.キリストの名によって洗礼を受け、罪を赦していただきなさい。」とペトロは語ります。大切なことはキリストの名による洗礼です。それまでも洗礼者ヨハネによって罪の赦しを得させるために悔い改めの洗礼を述べ伝えた(ルカ3:3)とあります。キリストの名による洗礼は、洗礼を受ける者がイエス.キリストを主、自分の救い主と呼びかけ、それによってイエスの救いの力(2:21)に身を委ねることです。その洗礼の際に、キリストの名に結びついている罪の赦しを受けることにより、最後の審判における救いが現実のものとなるのです。

2011.6.19 

説教題「教会の使信」 林邦夫 牧師
使徒言行録2:22-36

 教会、それはエクレーシア、すなわち「呼び集められる人たち」です。呼ばれています。二人、三人と応え始めました。それが教会になりました。その中に今の私たちも共にいるのです。 私たちを呼び集めるお方は、私たちが今眼前にみているすべての現実の向こう側、すべての終わりから、私たちを呼び集められます。すべてはそこに向かって招かれています。今そのことを知り、信じているのはこの小さな教会の群れです。しかし、教会はこの世に対して、楽観主義に対しては罪の悔い改めを迫るとともに、悲観主義に対しては復活の望みを語ります。キリストに至る道を示すのです。そのことのために、私たちは地上にいるのです。今日、私たちの社会は霊的枯渇の中で人間崩壊の危機に直面しています。「創り主なる聖霊よ来ませ」と祈り、聖霊を受けて、力強く歩みたいものです。

2011.6.12 

説教題「命の息吹」 林邦夫 牧師
創世記2:7 / 使徒言行録2:37-47

 井上洋治神父が聖霊の働きを「天藾と地藾」のたとえで語っておられます。「藾」とは風の音のことです。森に風が吹きすぎると、森の木々がそれぞれ音を立てます。それが「地藾」です。しかしそれは実は、「木が音を立てる」というより、「風が音を立てている」のです。これが「天藾」です。聖霊は「天藾」です。それが私たちの内に吹き来る時、私たちが自分の足で立ち、歩き始めるのです。今朝の使徒言行録2:37~47はペテロの説教の一部分です。聖霊の力が注がれ、ペテロは他の11人の使徒と共に立ち上がって語り始めたと2:14に記されています。ばらばらになっていた弟子たちの心は、聖霊によって結び合わされます。ペテロは力強く証しし、賜物としての聖霊を与えられると約束しています。ペテロ一人が語っているのではありません。彼らは一つに結び合わされ、証しする群れとして立てられているのです。聖霊降臨日のこの日、私たちはもう一度共に祈りましょう。「神よ、わたしの内に清い心を創造し、新しく確かな霊を授けてください」、そして私どもの教会を聖霊、命の息吹で満たし、私たちを一つに結び合わせ、主を証しする群れとして力強く押し出して下さいと。

2011.6.5 

説教題「キリストの昇天」 林邦夫 牧師
創世記2:7 / 使徒言行録1:1-11

フィリピ2章のキリスト賛歌は主の生涯を次のように記しています。「キリストは、神の身分でありながら、神と等しい者であることに固執しようとは思わず、かえって自分を無にして、僕の身分になり、人間と同じ者になられました。・・・」(2:6-9) 最初期の教会の讃美歌であったとも言われるこの賛歌の中では、主がこの世の最も低きにまで降ったことが強調されています。そのようにしてご自身低い者、小さい者、弱い者として生きた方であったからこそ、主はこの世界の中で低きに置かれている人々、小さくされている人々、弱さの中に置かれている人々を知り、共に歩み、愛の交わりの中に生きることができたのです。そして、そのような主の生き方こそ、神のみここに適うものであったということが、この賛歌の中で宣言されているのです。 弟子たちはそのような主と共に歩み、主のみ言葉を親しく聞き、その行動を見つめてきた人々です。彼らこそ、主がその生涯を通して歩み続けてこられた「主の物語」を最も親しく経験してきた人間にほかなりません。